ART ESSAYS


具象と抽象

「ロダンとジョージ・シーガルについて」

 

具象とは何かを考えた。

彫刻を例にとると、この難問を解りやすく説明することができる。ロダンの「青銅時代」という傑作がある。発表した当時余りにも人体そっくりなので、本物の人間を型にしてつくったのではないかと疑いをかけられた曰くつきの彫像である。もちろんロダンはそんなことはしていない。

その半世紀後、現代彫刻家のジョージ・シーガルは本当に人間から型をとって彫像をつくった。それ故、当然人間そっくりの彫像がうまれた。

ロダンの彫刻もシーガルの彫刻も人間そっくりなのである。しかし、ここに「美」という観点をくわえて鑑賞すれば軍配は明らかである。(美の定義は困難を極めるのでここでは保留。)どんなに美術に造詣がない人がみたとしても、殆んどがロダンの彫刻を美しいと言うだろう。蓋しシーガルにとって、それは意に介するものではないはずである。なぜなら彼は彫刻に無機質な現代性を美の代わりに表現しようとしたからである。

ああ、ここで一気に結論を導きだすことができる。シーガルの作品は現代性という付加価値はあるにせよ(あえて付加価値といったのは100年後にはもうそれは現代とは言えなくなるから)、それを除けば単に表面的にそっくりの具象なのである。対してロダンの作品における具象の中に内包する「美」は鑑賞者にとっていつまでも未知の領域であり、形の中からいつまでも解決できない謎のようなものが湧き上がってくる。そんな形の中から出て来る形以上のものを抽象性と言わずになんと言ったらいいだろう?つまり「美」を追及し得た最良の具象はその対極と思われがちな抽象と表裏一体なのではないか、そんな結論に達するのである。

美以外の美術的要素は時代を経るうちに色あせてくる。なぜならば、美のみが人間にとっての永遠の謎(つまり抽象)であり、それ以外の美術的アイデア(たとえばキュビズムやシュールレアリズム、コラージュ、インスタレーションなど)は人間が考えられるところの範囲であるにすぎない。そこで周知されるとともに色あせてくるのである。美が謎である限り美を定義することはできないが、少なくとも言えることは美術的様式(具象や抽象)とはまったく関係のないところで美は生まれるということである。もちろん定義ができない以上、美がどこから発生するのかはわからないが、具象やら抽象やら人間の考えの範疇にとどまる限りは、本当の意味での抽象である美は生み出し得ないのであろう。